探検と登山の記録

探検と登山の記録

―ヒマラヤの奥をめざして―

ブータン自動車横断旅行 (2) 西から東へ

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ティンプーをあとにする

ドチュ・ラ

 あくる朝,ティンプーを出発して,トンサへむかう。

 ティンプーの街をぬけると,みちはのぼり坂になる。20分ほどはしると,チェック・ポイントがあらわれた。カルマさんが手つづきをしているあいだ,わたしたちは車からおりて,みちばたの露店をみにいった。うりものは,リンゴ,ナシ,落花生,トウガラシ,乾燥くだもの,乾燥チーズなどである。ほしたナシをかった。にぎりこぶしほどのひと袋で150ニュルタムだった。

 ドチュ・ラ(峠)についた。峠はなだらかな稜線上にある。標高3150メートルのこの峠は,ティンプー,プナカ,ワンディ・ポダンの三つの県をへだてている。はれていたなら,はるか北に7000メートル級のブータン・ヒマラヤのすがたをみたはずだった。おしいことに,峠の北東は霧にかくされている。

 たくさんのチョルテン(仏塔)が墳丘のうえにたちならんでいる。これは,先代の国王の王妃が建立したものだという。2003年,インドとの国境地帯で反政府ゲリラとの紛争がおこった。そのとき,国王はみずから軍隊をひきいてゲリラを撤退させた。これらのチョルテンは,その勝利を記念しているということだ。数は108ある。

 

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ドチュ・ラのチョルテン

 わたしたちは,峠のはしっこにおおきなつぼ状の香炉をみつける。サンブン(注)とよばれるものらしい。台座のうえに,たき口のあいた白いつぼがあり,どんぐり型の突起がついたふたがのっかっている。

 安藤さんがいう。ここでいちばん観察すべきところは,まわりにちらばっている枝と葉だ。これをみれば,なにをもやしているのか一目りょうぜんだ。こういう炉でもやすのはマツやヒノキだと一般にいわれるけれど,ここではシャクナゲをもやした跡がある。こうした実際のことは,地元のひとにきいても,こたえてはくれない。まず目にみえることを丹念に観察することが必要なんだ。

 わたしは反省する。わたしのフィールドノートの内容は,ひとからきいた話ばかりで,自分で観察したことはあまりない。わたしは聴覚にたよりすぎている。フィールド・サイエンスをこころざすなら,まず自分でみたことをいちばんに信頼しならなければいけないのだ。

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サンブン(香炉)

(注)フィールドノートの記録では「サンブン」となっているが,帰国後いくつかの情報源でたしかめたところ,「サンタブ」としている例もみつかった。「サンブン」というよびかたもただしい。

ヒンドゥーのまつり

 峠から一気にくだってゆくと,盆地がひらけた。ひろくなだらかな斜面に田がひろがる。道路は山すそをはしる。道路ぞいに民家や店がならぶ。わたしたちは,車をとめて1軒の食堂にはいる。おそめの朝食で,ラーメンをたべる。

 とおりの反対側から,大音響のインド音楽がながれてくる。おまつりをやっている。ヒンドゥーのおまつりだという。おおきなテントのなかでやっている。わたしたちは,なかにいれてもらう。奥には祭壇があって,色とりどりの風船や菓子がそなえてある。司祭はベンガル人だ。わたしたちはみんな,額に赤い印をつけてもらう。ティカというヒンドゥーの宗教的な印である。おまいりがすむと,皿にのせた菓子をくれた。インド風のスナック菓子とペースト状のあまい米などである。

 きいたところでは,これは車のまつりだという。わたしたちがご飯をたべているあいだに,ドライバーたちもおまいりをしていた。わたしたちの車のフロントは,ピンク・青・黄の水玉もようの風船でかざりつけられている。交通安全のおまもりだろうか。かえって運転のじゃまじゃなかろうか。

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ヒンドゥーの自動車のまつり

 もう正午にちかい。30分ほど北へむかってはしる。

 まもなく川の合流点がみえてきた。対岸にプナカ・ゾンがあらわれる。白い城壁にかこまれた三つの塔。なん層もの赤い屋根。プナカ・ゾンは三方を川にかこまれ,山を背にした城塞である。わたしたちは,川べりの高台にたって,この風景をながめる。二つの川はポ・チュとモ・チュという。男川,女川という意味だそうだ。

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プナカ・ゾン

 時間がない。もう出発だ。南にむかってひきかえす。バジョの町にはいる。ところが幹線道路は通行どめだ。舗装工事のさいちゅうだという。川ぞいの未舗装のみちに迂回することになる。

 交差点に警察のトラックがいる。あのトラックも,ヒンドゥーのおまつりで祝福をうけてきたにちがいない。パステル・カラーの風船がフロント・ガラスの枠にくくってある。運転手は,いかめしい警察官である。なんだか不つりあいな印象に,わたしはおかしみを感じる。だれかがボレロの窓から手をふった。警察官はほほえんだ。

西から東へ

 ワンディ・ポダンの盆地をあとにする。道路は東にむかって高度をあげてゆく。

 わたしたちは,ブータンを東西にわける山岳地帯にわけいりつつある。谷そこの急流は,しぶきをあげながら,灰白色ににごる。黒ぐろとした山やまが,ゆくてに屏風のようにつらなる。

 ときどき山の中腹にひらけた土地がみえる。こんな山奥にも,ひとがすんでいる。いくえにも棚田がかさなる。斜面のいちばん上には家がある。たいていは1軒だけだが,2,3軒がかたまっていることもある。あの棚田をぜんぶ自力でつくったんだろうか。

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急斜面にも家と棚田がある

 このあたりの植生は,パロやティンプーの乾燥した谷とはちがう。こんもりとしげった照葉樹の森である。わたしたちは,この森の景観をみなれている。照葉樹林帯は,ヒマラヤ山脈の中腹を西の端として,数千キロもはなれた西南日本までつづいているのである。あの中尾佐助氏は,照葉樹林帯に共通する文化要素を発見して,照葉樹林文化論をとなえたのだった。

 みちのわきに露店がある。わたしたちは車をとめる。ふとい木の枝を柱にした,ほったて小屋を屋台にして,ふたりのちいさな女の子がカキをうっている。値段は法外にやすい。

 山はますますたかくなる。雲が山をめぐる。霧は谷をとざす。数軒の家がかたまった集落で,チャブサン(トイレ)休憩をとる。紅藤色の丸みをおびた花をつけた草が土手に群生している。野生のソバだという。

 高度があがるにつれて,照葉樹林はすがたをけした。山は針葉樹林におおわれる。ペレ・ラはもうすぐだ。安藤さんは助手席の窓から前方をゆびさす。ウシがいる。ゆっくり道をあるいている。おおきな角をもった黒いウシだ。わたしたちの車は,あっというまにウシをおいこしてゆく。あのウシは,ふつうのウシとミタン牛の交雑種だそうだ。

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ウシとミタン牛の交雑種

 車はなだらかなコルをこえる。これがペレ・ラか。標高3360メートル。この峠をさかいにして,ブータンは東西にわかれる。それにしては,あまりにあっけない。わたしたちは,ここでは停車せず,さきをいそぐ。

 峠の西と東では,天気がちがうようだ。視界をとざしていた霧は,すっかりはれた。なだらかな谷がひろがる。うすく黄色をおびた緑,あるいはふかい草色の畑が斜面にパッチワークをつくる。わたしたちは,ある畑のまえで車をおりる。畑では3人の女のひとが刈りとりをしている。これはなんの畑だろう。うわっているのはキャベツだ。しかし,キャベツのあいだには雑草がおいしげっている。ちかづいてみてみると,それは野生ソバだった。かの女らが刈りとっているのは,このソバである。たべるのか。いや,ウシのえさにするらしい。

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キャベツと野生ソバの畑

 車で10分くらいはしったところで食堂にはいる。ブータン風のやき飯をたべる。午後3時半。おそい昼食である。きょうの宿泊地トンサまでは,まだとおい。トンサにつくころには,すっかりくらくなっていることだろう。

 あまりよりみちばかりしていられない。とはいいつつ,出発してまもなく停車する。チェンデジ・チョルテンという巨大な仏塔をみる。塔の四方に目がついている。カトマンズにある仏塔ににている。このかたちの仏塔は,これまであまりみたことがない。ドチュ・ラのチョルテンは,お堂みたいなかたちのものだった。

 夕ぐれがちかづいてきた。谷のむかいにトンサ・ゾンがすがたをあらわした。吉田君が車をとめてくれとたのむ。ここまでの旅行で,かれはゾンに対してたいへんな関心をしめている。わたしはかれの熱心さに脱帽する。トンサ・ゾンは,そのながい城壁を尾根のうえによこたえている。黒い山なみのなかで,白壁のゾンはきわだってみえる。

 午後6時20分,トンサの宿にはいる。山小屋ふうのいい宿だった。

高原の旅

 9月18日の朝,わたしは5時におきだす。けさはゾンをみにゆこうと,ゆうべ相談してきめたのだった。ほんの2,3人でゆくつもりだったのだけれど,けっこうの人数があつまった。まだ外はあかるみはじめたばかりだ。トンサの町はしずまっている。

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トンサの朝

 家いえのあいだをぬけて階段をおりてゆくと,まもなく巨大なゾンがその全容をあらわす。屋根つき橋をわたって,ゾンの入り口につく。あまり時間がないから,そとからながめるだけだ。しかし,城壁にならんだ窓の装飾ひとつをとっても,見ごたえがあった。ふりかえると,トンサの町は朝もやのなかにある。

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トンサ・ゾン

 朝食をすませて,8時まえに出発する。

 トンサのあたりの山は,一面の照葉樹林におおわれている。1時間もはしると,景色は針葉樹林にかわった。赤松さんの説明によると,ここでみられるマツはヒマラヤゴヨウだ。ブルー・パインともよばれる。標高2500〜3500メートルに生育する。わたしたちがパロやティンプーの谷でみたのは,これとは種がちがうヒマラヤマツだった。こちらは標高2000メートルまでしかそだたないという。

 グミの木がたくさんはえている。あかい実をつけている。わたしたちは,なん粒かとってたべる。ドライバーたちは,枝ごとおって,わたしたちにくれる。わたしたちは,しばらくのあいだ,グミの枝といっしょに旅をする。グミの木は,ダンベリン・シンというようだ。

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ダンベリン・シン

 ヨトン・ラをこえて,ブムタン県にはいる。ブムタンは,ひろびろとした高原地帯である。盆地をかこむ山やまは,たおやかな稜線をかたちづくっている。ソバ畑やリンゴ園がみちぞいにつづく。ソバは栽培種である。野生種とはちがって,背丈がたかい。

 橋のたもとで,にぎやかなおまつりをやっている。これもヒンドゥーのおまつりだ。青やオレンジ色の粉をかぶったひとたちが,神さまの像をかついで川の水にはいる。むかしはこの像を川にながしたという。いまは環境保護のために,ただ水をかけてあらうだけだ。

 ある果樹園では,ナシがみのっている。こつぶだが,黄いろく色づいている。果樹園のもち主のおじいさんに話をつけて,いくらかわけてもらう。ドライバーたちは柵のなかにはいって,ナシの実をもぎとっては,ほいほいとくれる。あまみはあまりないけれど,水っぽくはない。

 みちばたの店で,ほしチーズをかった。チュルカムとよばれるもので,石みたいにかたい。さいころ状のチーズを20〜30個も糸にとおしてつなげたのが,天井からたくさんぶらさがっている。坂本さんはあまりすきではないというけれど,せっかくだからためしてみる。口にいれても味はほとんどしない。かたくてかめないから,ずっとなめている。そのうちやわらかくなってくる。ちょっとくせのある牛乳の味がする。予想していたよりも,ずっとうまい。

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チュルカムの束

 高原の旅はつづく。ツガやカラマツの林をゆく。ツガとモミの見わけかたを赤松さんが説明してくれる。いちばんかんたんなのは,松ぼっくりのつきかたをみることだ。ツガは上むき,モミは下むきについている。葉のきれこみのはいりかたもことなるが,こちらは判別がむつかしい。

 ブムタンはほんとに景色のいいところだ。信州の高原のような印象をうける。しかし,はださむい。冬になったら,心そこひえるのだろう。昼食をとった食堂ではストーブをたいていた。

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ブムタンの風景

「バスが谷におちた」

 ここからモンガルまでは,トゥムシン・ラという峠をこえてゆく。ブータン横断道路の最大の難所である。いや,峠ごえはそんなにおどろくほどのことはない。いままでにとおってきた峠とかわらない。お堂とマニ壁があって,たくさんのルンタとダルシン(どちらも経文旗)がはためいているだけである。お堂はまだ建設の途中らしくて,内部には木をくんでつくった足場がある。3基の仏像がお堂に鎮座している。まんなかのいちばんおおきなのは,ブータンに仏教をつたえたとされる聖人パドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)の像である。

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トゥムシン・ラのルンタ

 峠からくだってゆくと,ブムタンとおなじようなひらけた谷があらわれた。黄色い花のさいた草地にウシが放牧されている。茶色や黒のほかに,ホルスタインらしいまだら模様のもいる。わきあがった雲のあいだから青空がのぞく。源氏の白旗みたいなダルシンが空につきだしている。

 わたしは,赤松さんとドマの話をする。ドマというのは,石灰をぬったキンマの葉でビンロウの実をくるんでつくる嗜好品で,これとおなじものは,インドや東南アジアにもひろく分布している。これをかむと,口のなかに唾液がまじった赤い汁がでてくる。地面にこの汁をはきだすと,そこに赤いしみができるという。わたしは,一どドマをためしてみたい。赤松さんは,

「そこの店でうってますよ」

という。わたしは赤松さんについてドマをかいにゆく。店のおばちゃんは,バケツの水からキンマの葉をとりだし,ビンロウの実をつつんで,わたしてくれる。わたしは,ドライバーにドマのたべかたをおそわる。葉っぱについた石灰をみて,ドルジ・ワンチュックさんはいう。

「こいつは危険だ」

 あんまり石灰がおおいと,刺激がつよすぎるようだ。白い粉をこそぎおとす。

 わたしと堀本君は,ドマを半分ずつにわけて,同時に口にいれる。葉っぱの青くささとにがみ。ビンロウの実はごつごつする。しばらく実をかみくだいていると,口のなかはつばだらけになる。つばは,のみこまないほうがいい。このさきのドライブのあいだ,ずっと口のなかにたもっておくのは,けっこうしんどいことだ。わたしは,あきらめてドマをはきだす。

 いよいよ難所にさしかかる。道路は舗装されているものの,でこぼこがおおく,幅はせまい。センターラインはひいてあるけれど,対向車がゆきちがうのはむつかしそうだ。きりたった崖のすぐそばをゆく。霧がでてきた。

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難所にさしかかる

 雨季のあいだ,このみちをとおるのは危険なことである。落石もある。土砂くずれもある。去年はここでバスが谷におちた。ガードレールがわりのコンクリート・ブロックがおいてあるけれど,あんなものは役にたちそうにない。

 滝がながれおちてくる。ちいさい滝。おおきい滝。滝つぼのしぶきが車の窓ガラスにとんでくる。こんどは沢が道路を分断している。ボレロは,エンジンをふかして沢に突入する。じゃぶじゃぶと水流をかきわけてはしる。

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車は水に突入する

 むかしよんだ探検記に,自動車をおして川をわたる写真があった。あれはアフガニスタンの山奥の話だった。1950年代のことである。おなじころ,ブータンはといえば,車がはしるなんてかんがえられなかった。中尾佐助は,徒歩でブータンを旅行したのだ。60年以上たったいまでは,この国の東西は道路でむすばれている。半世紀のあいだに,ブータンは秘境ではなくなったのかもしれない。

 危険な箇所はすぎた。モンガルの町へむかってくだってゆく。ササのしげみがある。バナナもはえている。数頭のウシの群れをひとがおう。棚田がみえてくる。道路は田んぼのあいだをとおる。かんたんな小屋が田のあぜに点在している。これらの小屋は,農繁期にはものおきと宿泊場所になるようだ。わたしたちは車からおりる。ここは,安藤さんがまいとし定点観測をしている場所だという。谷にむかって棚田はつづいている。あおい稲穂がずっとつづく。

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棚田の小屋

 うすぐらくなってきた。モンガルについたのは,午後7時半だった。一ど停電があったが,まもなく復旧した。ブータンにきてはじめての停電だった。

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もうすこしでモンガル

(つづく)

ブータン自動車横断旅行 (1) 入国

パロの谷

 ドゥルック・エア153便は,しだいに高度をおとして,着陸態勢にはいった。

 雲のきれまから青あおとした山はだがせまる。山腹をぬうように,土色のみちがはしる。家だ。切妻屋根の白壁の家だ。わたしは,なんとかして写真をとろうとこころみる。飛行機はすぐまた雲のなかに突入する。

 ガクンとひとゆれすると,そこはパロの空港だった。ほそながい盆地の底に滑走路がのびる。さっき飛行機からみえたような家いえが山すそにちらばる。山やまの中腹を雲がとりまく。午前7時30分。日ざしはつよい。

 飛行機のタラップをおりて,わたしはすこしのあいだたちどまる。パロの谷をながめる。谷をかこむ山やまは,そうたかくない。この谷で標高2300メートルだから,この山なみも3000メートルくらいはあるだろう。それにしては,あまりになだらかである。京都盆地からみた大文字山か,せいぜい比叡山くらいなものだ。ブータンは急峻なヒマラヤの国だとおもっていたが,これはどうもちがったようだ。

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滑走路からみたパロ・ゾン

 こだかい丘のうえに,いちだんとおおきなブータン建築がみえる。パロ・ゾンだ。ゾンというのは,寺院と役所とをかねた城塞のことである。いくつもの窓があいた白い城壁のうえに,くすんだ赤の屋根がのっかっていて,その城壁にかこまれたあいだから,五重塔みたいな建物が空につきだしている。わたしは,ガイドブックの写真でみたラサのポタラ宮をおもいおこす。

 空港のターミナル・ビルも,りっぱなブータン風の建物だった。わたしたちは,ここでガイドのカルマ・ギェルツェンさんらのでむかえをうける。カルマさんとドライバーたちはみんな,着ものによくにた服をきている。ブータンの伝統衣装ゴだという。わたしたちは,ひとりひとり,マフラー大のうすくて白い布を手わたされる。吉祥の文様がおりこまれたうつくしい布である。この布をわたすのは,客人をむかえるときのしきたりらしい。

 カルマさんは,おおきな腹をかかえた背のひくいひとだ。その体型からはちょっと想像もできないことだが,かれはエベレストに登頂した経験をもつという。わたしたちはこれから2週間,カルマさんたちのせわになる。

 わたしたちはまず,空港のそばのティー・ハウスのテラスに陣どる。ミルクティーとビスケットの軽食をとりながら,これからの旅についてうちあわせをする。 

旅の目的

 わたしたちというのは,京都大学からきたスタディー・ツアーの一行である。そのメンバーは,東南アジア地域研究研究所の安藤和雄教授,坂本龍太准教授,赤松芳郎助教ミャンマーのパーン大学のミン・ティダ教授,京都大学医学研究科院生の平山さん,それにいろんな学部の学生12人である。

 この旅の目的は,東ブータンの農村をたずねて,離農問題・過疎問題についてかんがえることである。そんな問題が,いまブータンでおこっているのか。おこっている。それも,きわめてはやいペースで進行している。離農や過疎というと,わたしたちは日本国内の,しかも僻地だけの問題としてみてしまいがちだ。けれども,いまや,これらの問題はもっと普遍的な,世界的な規模のものになりつつある。ブータンでも,農村の耕作地が放棄されて,人口が都会にながれこむ現象があらわれはじめているというのだ。

 安藤さんは,海外ではバングラデシュミャンマーブータン,日本では京都,滋賀を中心とした地域で,実践型地域研究をすすめてきたひとだ。これまでなん年にもわたって,日本とブータンで,学生を対象にしたフィールドワーク・セミナーをつづけてきた。

 ことしの夏も,安藤さんたちは,京都府宮津や美山でセミナーをひらいた。そのさい,ブータンから数名のひとたちを京都にまねいた。東ブータンの農村地域にすむひとたち,ブータン王立大学シェラブツェ・カレッジの学生たちが日本にやってきた。わたしはそちらのセミナーには参加していないから,くわしいことはしらないけれど,そこでもさまざまな農業問題にとりくんだらしい。ブータンの村びとのひとりは,日本でえた知識をもとに,さっそく有機農法をはじめたという。

 わたしたちの旅は,9月16日から28日までの2週間の予定である。目的地はブータンの東端,タシガン県だ。そこにはシェラブツェ・カレッジがある。そして,カルマさんの故郷の村バルツァムがある。タシガンまでは,山みちを車で3日間はしる。そこに滞在するのは,実質4日間だけである。みじかい日数のなかで,いろんなことをする。シェラブツェ・カレッジでは学生交流行事をやる。ちかくの小学校をたずねる。カンルン村の診療所,役所,寺にゆく。ヨーグルト工場を見学する。それからバルツァム村に移動する。そこでも役所にいったり,小学校にいったりする。村ではフィールドワークもするということだ。 

出 発

 さあ,いよいよ出発だ。3台のインド車ボレロにわかれてのりこむ。おおきな荷物をはこぶためのピックアップ・トラック1台,それに保健省の日産パトロールもついてくる。

 パロ空港をあとにして,ティンプーへむかう。道路は,ひろい谷にそうて,ゆるやかなカーブをえがく。谷底をパロ・チュ(川)がながれる。谷あいの平地には水田がひろがる。まだ稲穂はあおい。民家は,川からはなれた山すそに点在している。どれもブータン式の建築だ。わたしは,すっかりうれしくなる。

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山すそに民家がならぶ

 みんな元気のようだ。助手席にのった堀本君は,しきりに運転手のワンチュック・ドルジさんにはなしかける。いまみえた建物はなんというのかときいたり,ゾンカ語(ブータンの国語)のいいまわしをたずねたりする。

 いまひとつみなれないのは,自動車道路のうえをウシやウマ,イヌが闊歩していることである。闊歩しているのならいいけれど,なかには道路のまんまかにすわりこんでいるのもいる。ことにイヌが路上で昼寝をしているのをよくみかける。まったく無防備なものであるが,ドライバーは,ねそべった犬をよけてとおる。

 すれちがう車はそこそこの数がある。ダンプカーはたいていはでにかざりたてられている。極彩色の装飾にくわえて,ボンネットにはふたつの目がえがかれている。

 みちぞいに,ぽつぽつと露店がある。屋根のついた停留所みたいなのもあれば,ただ品物をひろげただけの場所もある。たいていは,なんにんかのおばさんたちが野菜とくだものをうっている。

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パロからティンプー

 パロ・チュとティンプー・チュの合流地点にさしかかる。ワンチュックさんは「チュゾム!」とおしえてくれる。川の合流地点には,3基の仏塔がたっている。

 だんだん街にちかづいてきた。交通量がおおくなる。ティンプーは,ティンプー・チュの谷にそうた南北にほそながい街である。

 ティンプーの市街地は,どんどん南に拡大しているという。街は建設ラッシュのさなかにある。4, 5階だての建物がたちならぶ。ビル自体は鉄筋コンクリートづくりだが,屋根や窓の装飾はブータン風のデザインである。建設現場では,竹でうまいぐあいに足場をくんでいる。はたらいているのは,はだのあさぐろいひとたちだ。たぶんインド系だろう。

 街をみおろす高台に巨大な仏像がある。金ぴかの仏さまである。シンガポールと香港の億万長者が寄進したものだという。

ティンプーの日本人

 はじめに,わたしたちはブータン王立大学の本部にむかう。副学長を表敬訪問するということだ。大学についてみると,しかし,いまはいそがしくて面会できない,という。

 つづいてJICAの事務所をおとずれる。所長の渡部晃三氏におあいする。渡部さんは,ことしの3月からブータンで仕事をしている。そのまえは,ベトナムカンボジアに3年ずついたそうだ。わたしたちは,JICAの活動について,渡部さんから説明をきく。

 話のあとで,わたしたちはさまざまに質問する。ブータンでは田畑の区画整理はされているのか。ブータンに地籍図はあるのか。ブータンの教育はなにをめざしているのか。ブータン人は国王のことをどうおもっているのか。そんなにかんたんにはこたえられない質問がおおい。渡部さんには,ごめいわくをかけたかもしれない。

 午後,わたしたちはかいものにでかける。まずは,ゴとキラをかいにゆく。ゴは男ものの,キラは女ものの衣装である。ホテルのちかくの呉服屋にゆく。赤,だいだい色,茶色,黄色,青,むらさきにそめられた糸の束が店だなの一角をうめる。できあいのゴとキラもたくさんある。わたしたちは,そのなかから気にいった柄のをえらぶ。

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呉服屋の棚にはゴ・キラがうずたかくつまれている

 わたしははじめ,伝統的なスタイルのゴがほしいといった。店のおばちゃんがえらんでくれたのは,だいだい色と金色の糸で織られたものだった。ドライバーに着つけをてつだってもらった。これはちょっとちがう。やはりはですぎる。まわりは口ぐちに,チベットのえらい坊さんみたいだとかいうけれど,けっきょく,もっと地味な,赤茶のチェック柄のゴをえらんだ。

 かったばかりのゴとキラをきて,とおりをあるく。このあたりはティンプーの目ぬきどおりである。ジェネラル・ショップや飲食店・衣料品店・みやげもの屋が軒をあらそう。市内にたぶん1カ所しかない「信号」もここにある。交差点の中央にあずまやふうのボックスがあって,警察官が手信号で交通整理をしている。ひとどおりはおおい。ひと目でブータン人とわかるひとのほかに,インド人らしい顔だちのひともけっこういる。西洋人と中国人もみかけた。

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ティンプーの大どおり

 わたしたちのゴ・キラの着こなしは,こなれない。わたしは,ブータン人にどうみられているのか気になる。その土地のひとびとからすれば,なじみぶかい文化を異質的な人間が身にまとっているわけである。日本にきた外国人が,にわか仕たての着ものすたで,四条河原町あたりをあるいているようなものだろうか。

ひとりたりない

 みやげもの屋によったあと,モバイル・ショップでSIMカードを購入して,ホテルにかえった。連絡がつきしだい,もう一ど王立大学にゆくという。それまで部屋で待機する。

 とはいっても,手もちぶさただから,ちょっとそこまでひとりででかけることにした。これがまちがいだった。しばらくあたりを散歩してかえってきてみると,だれもいなくなっていた。

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ある窓の風景

 だいぶたってから,みんながかえってきた。わたしが外出していたちょっとのあいだに,王立大学にむかってホテルを出発していたという。大学についたとき,ひとりたりないことに気づいた。12人もいれば,ひとりくらいいなくたってわからないものだ。

 じつをいうと,わたしはけっこうショックをうけている。そんなかんたんにわすれられていたのか。でかけるまえに,だれかにひとこと,つたえておくべきだった。しかし,ひとり部屋だから,つたえる相手もいない。それとも,でかけること自体がまちがいだったのか。

 わたしは,夕食にすこしおくれてゆく。お客さんがふたりきている。安藤さんが紹介する。ふたりは,タシガン県の元知事と元保健局長である。かれらは,安藤さんの友人であり,日本の宮津にきたこともある。元知事は,ダショーに叙されている。ダショーは,ブータン爵位である。

 ダショーがあいさつをする。

「わたしは,県知事をつとめたあと,地方行政の官僚になった。数年まえにその役職をやめて,選挙に立候補した。ところが落選した」

 これが,かれの自己紹介である。そして,いまは引退生活をおくっている,という。

 ダショーは,ブータンの保健制度について説明をはじめる。元保健局長の話もあいだにはいる。ブータンでは,医療費はすべてただである。調子がわるくなれば,まず村ごとの診療所にゆく。ちいさな診療所で手におえなければ地方の病院へ,それでだめならおおきな拠点病院,それからティンプー,そしてタイのバンコクやインドの都市の病院におくられる。これはすべて無料である。質問がでる。ブータンと日本の保健制度を比較して,あなたはどうかんがえるか。ブータンの財政は,国際的な援助なしでなりたつのか。ダショーは,ふたたびながい演説をはじめる。

 あとで安藤さんにきいたところでは,今夜のダショーの話はくりかえしがおおかったらしい。ほんとのところ,わたしはながい話の3割くらいしか理解していなかった。

(つづく) 

 

初出 京都大学探検部編『探検報 2019』pp.13-29

 

上高地から焼岳へ

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中尾峠からガスにけむる焼岳をのぞむ(かえり)

 2019 年 8 月 16 日から 17 日,わたしは家族旅行で上高地をおとずれた。せっかくだから山にゆこうとかんがえて,日がえりできる焼岳にひとりでのぼった。前日までの台風の影響で,天気はおもわしくなかったが,植物や岩石など,みちすがら目をたのしませるものがあった。

 ひさしぶりに紀行文をかいてみようとおもいたって,できあがったのがこの文章である。

 

  * * *

 

 上高地―焼岳小屋―中尾峠―焼岳北峰―中尾峠―焼岳小屋―上高地

 

 月 17 日の午前 5 時すぎ,わたしは西糸屋山荘をでた。もう日の出の時刻だ。しかし,山やまにかこまれた上高地には,日の光はまださしてこない。うすぐらい木だちのなかを,登山口へむかう。ときどき,早朝の散歩にでてきたひとにであう。おたがいにあいさつをかわす。

 きのうみた河童橋のさわがしさは,なんだったんだろう。おおぜいの観光客がバスにのせられて,上高地にはこばれてくる。いたるところ,ひとばかりだ。都会の雑踏が,飛驒山脈のどてっぱらに穴をあけて,ここまで延長しているのである。山をみにきたのか,ひとをみにきたのか,わかったものではない。

 ひっそりとした朝の光景をみて,わたしははじめて満足する。梓川の川面がぼおっと反射する。ふりかえると,穂高明神岳と六百山のあいだから,日の光がさしはじめている。奥穂・西穂は,雲のなかだ。

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朝日がさしはじめた梓川のほとり

 ウェストン碑をすぎると,穂高の登山口,まもなく焼岳の登山口につく。おそろしく足のはやいおじさんが,うしろからおいこしていって,すぐみえなくなった。夏緑樹林のなか,ササのあいだのみちをはいってゆく。ごろごろと石がころがっている。なだらかな斜面で,のぼっているのかどうかわからないほどだ。それでも,あるいていると,あつくなってくる。

 2 メートルくらいのハシゴがあらわれた。傾斜がきつくなる。山らしくなってきた。高度をかせいでゆくと,左手に谷がひらけた。峠沢だ。森林におおわれた扇状の斜面がえぐりとられて,V 字の谷になっている。崖面にあらわになった土は,うっすらと赤みをおびている。

 みじかい桟道をわたる。樹林帯をぬけた。梓川の谷のむこうに,霞沢岳・六百山がそびえる。きりたった稜線とあつい雲のすきまから,いくすじもの日光がさしこむ。正面にみえるはずの焼岳山頂は,ガスにつつまれている。右手の山はだには,巨岩がつらなる。

 すうっと青くさいにおいがする。みちのわきにセリ科植物が群生している。たいていの植物をみても,科名や属名をいいあてることはできないけれど,これはにおいと葉のかたちでわかる。どちらもセロリににている。

 たかいハシゴだ。岩をのりこすために,3 段のハシゴがかけられている。7, 8 メートルはあるだろうか。慎重にのぼる。こんどは,ごくみじかいクサリ場だ。ここをこえれば,もう焼岳小屋はちかい。

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たかいハシゴ

 ササの群生のなかをつづらおりにのぼる。背のたかい木はなくなった。雷にうたれて炭化した木が 本,幹だけのこしてたっている。峠にさしかかる。いよいよ霧はふかい。針葉樹の林をぬけると,焼岳小屋についた。

 小屋は,峠道のせまい平地にたっている。おおきな岩に戸をむけて,背後はすぐ林である。小屋のちかくのあき地で,ひとりのおじさんが朝食をつくっている。わたしも,ここで朝食をとることにする。宿でつくってもらった弁当をひろげる。午前 時。予定より 40 分はやい。「とちゅうで,おいこしていってくださいよ」といって,おじさんはひと足はやく出発した。

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焼岳小屋

 ヘルメットをかりて,時半,小屋をあとにする。100 メートルさきもみえない濃霧である。稜線をのぼって,またくだると,中尾峠だ。石舞台古墳みたいなおおきな岩がコルのまんなかに鎮座している。ときおり,硫黄のにおいが風にはこばれてくる。

 ここから山頂までは,一直線にのぼるだけだ。ほんとなら,すぐ目のまえに焼岳主峰の巨大な溶岩ドームがみえるはずだ。ざんねんなことに,まっしろいガスがなにもかも,かくしてしまっている。

 灌木の林をぬけると,岩と砂の斜面がつづく。岩はだに硫黄の結晶があらわれている。白,黄,赤,黒のまじった,ふくざつな模様である。岩ばかりの土地でも植物はそだつけれど,硫黄のふきかたまったあたりには,なにもはえない。岩と砂と草のモザイクが山をおおう。この多様な色彩を「五色の着物」と,深田久弥は表現している。

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火山の噴出物

  時 20 分,山頂直下に達する。さっき小屋であったおじさんがやすんでいる。いよいよ最後ののぼりだ。時 27 分,焼岳北峰。標高 2444.3 メートル。山頂のまわりは,ややなだらかな土の斜面である。すでに 30 人ちかい登山者がいる。みんな,霧がはれるのをまっているのだろうか。火口湖も,焼岳南峰も,ふかいガスの奥にかくされている。すこしさきの岩影さえかすんでみえる。時までまつことにしよう。それでだめなら,下山する。

 10 分くらいたった。景色がぼんやりとあかるくなる。日光のあたたかさを感じる。はれるのだろうか。しかし,ふたたび霧はふかくなり,太陽をとおざけてしまった。

 9 時をすぎた。視界はひらけそうにない。心のこりだが,山をおりよう。

 焼岳小屋へむかってくだりはじめると,山頂はすぐガスにかくれた。ゆく手の斜面をはうように霧がながれる。なん組ものひとたちがのぼってくる。人影がしろくかすむ。

 中尾峠がみえてきた。霧ははれはじめている。眼下に上高地の谷がひろがる。梓川が湿地帯を蛇行する。霞沢岳は頭を雲にうずめている。穂高連峰ははるか前方の,霧のむこうだ。

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中尾峠の手まえで上高地がみえた

 峠から小屋までのあいだで,おもしろいものをみた。みちのすぐそばに,通気口みたいなふたつの穴があいている。そこから,なまあたたかい湯気がふきだしている。ちいさな噴気孔だ。

 もう焼岳小屋はすぐそこである。上高地まではあと 時間半ほどだろう。ふりかえった焼岳山頂は,まだ雲のなかにあった。

 

(2019 年 8 月 30 日)